12月2日(上告・上告受理申立ての各理由書の補正作業,那覇簡裁で裁判官の押印のない逮捕令状などの発付というニュース)

午前6時半起床
朝刊を読んでから,メールの確認

 信窓会の幹事長から午前1時過ぎの発信時刻のメールで,「白門」の掲示板1月号に掲載予定の「信窓会だより」の原稿案が届いていたので,その内容を読ませていただいてから,補正していただきたい箇所に赤字の記入をしたファイルを添付して,返信。

 本日の予定は,
  終日,年金記録事件の上告・上告受理申立ての各理由書の補正作業(明日もその続きと印刷・製本作業,明後日4日の午後3時までにクロネコの宅急便による発送作業を済ませて,5日に東京高裁の担当部に到着するようにして,提出の予定(提出期限は6日)。

(追記)10:34
「ボ2ネタ」の12月1日の記事の中に,
「■[司法]裁判官の印鑑が押されていない令状を発付 那覇
https://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20181130/5090005103.html
という記事。
 その内容を読んで,びっくり。
 私が,各勤務先の裁判所で令状当番をしていた当時の経験からは,令状請求がされた時点で,担当書記官からの裁判官への連絡と請求書類の受渡しということが行われなかったということは,全く考えられないこと。

 「ボ2ネタ」の記事を見た時点では,裁判官が最後に押印するのを忘れてしまい,そのことに気付かないのまま,書記官から捜査機関に押印漏れの令状が渡され,捜査機関も押印漏れに気付かないまま,その令状を示して逮捕手続きなどをとっていたことが,後日発覚したということなのかなと考えたが,そうではなく,捜査機関からの請求請求があったという連絡も,請求書類の受渡しも,裁判官に対して行われていなかったという説明。

 私が令状当番を担当していた当時は,裁判所に「これから令状の請求に伺います」という電話が警察から架ってきた時点で,まず,その日の令状当番の書記官から,令状当番の裁判官に,「只今,○○警察署から,○○令状の請求に行くという連絡がありましたので,よろしくお願いします。到着時刻は,○○時頃になる見込みです。」という内容の連絡があり,請求書到着後,その書類と令状の用紙が裁判官に届けられ,裁判官が請求書類の内容をよく読んで,許否について検討後,許可する場合は,令状用紙の記載内容に誤りがないかどうか確認してから,裁判官名の下に押印して,書記官に手渡すという順序で,裁判官による令状の作成が行われていました。

 何かとんでもない行き違いがあって,ニュースで説明されたような裁判官無関与の状態で,裁判官の押印なしの令状の発布という結果になってしまったのか,実際は,裁判官への請求書の手渡し,裁判官による検討作業も行われていたが,押印漏れという裁判官による過誤を隠すため,裁判官は無関与という説明がされたということなのかのどちらかではないかとしか考えようがありません。
 簡裁裁判官の資格での令状の作成であっても,那覇地家裁勤務の裁判官が簡裁裁判官の資格で,令状の作成に当たることもあります(令状当番の裁判官の数は,地家裁勤務の裁判官の方が簡裁勤務の裁判官より多い)。那覇は,沖縄の基地関連の重要事件を扱う関係で,昔から,いわゆるエリート裁判官の赴任先にもなっているようなので,そうした裁判官の経歴に傷がついてはいけないとの忖度から,すべて事務方の責任として処理されようとしている恐れもあるのではないかという疑いなきにしもあらずなので,本当はどうだったのかということをよく調べていただく必要があるのではないかと思います。(その日の令状当番の裁判官は,どなただったのでしょぅか,ご本人は,本当に何も知らなかったと述べておられるのでしょうか。当該令状請求は,いつどこの警察からされたのでしょうか。令状請求の連絡は,いつあったのでしょうか,その連絡を受けた職員はどなたなのでしょうか。その時点で,令状当番の裁判官への連絡はしなかったのでしょうか。その当時,当番の裁判官は,どこで何をしておられたのでしょうか。
 警察からの連絡を受けた職員は,裁判官への連絡はしなかった理由についてどのような説明をしているのですか。
 令状の請求時期と発付時期は,それぞれ何日の何時と記録されているのでしょうか。
 令状の発付時刻に,当番の裁判官は,どこで何をしておられたのですか。
 令状に裁判官の押印がなかったということが発覚した時点で,その令状に氏名が記載されていた裁判官は,押印が欠けていたことについて,どのような説明をしていましたか。
 担当の書記官は,最初,どのような説明をしていましたか。
       など,など)
    
(追記)22:24
午後9時から,NHK総合テレビの「NHKスペシャル」を見た。
取り上げられたテーマは,山一證券破綻の真相。
行平社長の判断の誤りを指摘し,軌道修正させる能力と気概を持った役員が1人もいなくなってしまっていたよう。
 私が山一勤務2年目の昭和37年4月から退職した昭和43年4月末まで勤務していた管理会計課(予算統制,経営分析,内部監査,取締役会提出資料の作成など)は,行平社長にとっては,邪魔な存在と考えられるようになったようで,山一破綻の数年前に無くされてしまっていたようで,かつて管理会計課に勤務しておられた方々は,皆さん,「管理会計課が潰されなければ,こんなことにはならなかったはず」と悔しがっておられる。

 私が管理会計課に勤務していた当時,行平さんは,同じ企画室の総合企画課に,三木さんは投資信託部におられて,行平さんとは時々廊下で,三木さんとは,毎月初めに,管理会計課に,前月分の投資信託部関係の統計数値を持って来てくださった時,それぞれお目にかかっていたが,行平さんは当時から相当なやり手の方のように見え,三木さんは,いつも笑顔の好青年でした。