11月14日(原稿の執筆作業,「絶望の裁判所」,新島ミサイル試射場入会権確認等訴訟事件についての記事が本日の夕刊に,喪中の葉書,熊本のホテルの予約やり直し)

 午前7時起床(寝たのは3時半)
 今朝は,朝刊の休刊日のようで,新聞受けに新聞なし。
 メールの確認をしたら,昨日は,気付かなかったが,○○さんから,関東ブロック研修会の2日目の行事(見学と昼食会)には参加できなくなったという連絡のメールが届いていたことが分かったので,返信の後,参加者一覧表(原始データ)と配布資料用の出席者名簿のファイルの訂正。東京支部役員への連絡(メーリングリスト)。講演会用にペットボトルの水60本をホテルにお願いしたことも付記。

 本日の予定は,終日,自宅で,18日発送予定の出版社から頼まれた原稿の執筆作業。

(追記)
昨日の朝刊に掲載されていた最高裁人事は,木村福岡地裁所長の定年退官による異動のようではあるが,その中の「福岡家裁所長(福岡高裁部総括判事)白石哲」という部分には,「絶望の裁判所」と非難されているやり方が今もなお続いているようだという感を新たにした。

 白石裁判官は,東京地裁の労働部の裁判長だった時,旧国鉄の職員1047名の解雇の適否が争われていた訴訟事件で,平成24年6月29日に,1047名の職員についてJRへの移籍を認めないことにしたのは不当労働行為との判断を含む判決を言い渡して間もなく ,東京地裁の民事執行センター(目黒)に配置換えとなった後,25年5月22日に,東京勤務の奥様を東京に残した状態で,大分地家裁所長として大分に転勤させられてしまい,その後,福岡高裁部総括判事に昇格となり,この度の異動は,所長へのご栄転とはいうものの,お得意の労働事件には全く関与できない家裁。その間,不当労働行為判決言渡し当時,東京地裁交通部の部総括をしておられた奥様は,27年4月1日に京都家裁所長となられ(たまには会えるでしょうという当局の配慮か),その後,つい先日,28年7月29日に,東京高裁部総括判事にご栄転ということを知ったばかり。
 そして,たった今,福岡高裁で白石哲裁判長が10月25日に言渡されたという判決についての10月26日の読売新聞九州版の記事をインターネットのニュースで知った。
 記事の内容は,
不整脈で突然死した福岡県内の男性郵便局員(当時41歳)の遺族が「突然死は局長らのパワーハラスメントによるストレスが原因」として、日本郵便(東京)に1億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が25日、福岡高裁であった。白石哲裁判長は、賠償額を220万円とした1審・福岡地裁小倉支部判決を変更し、330万円に増額する判決を言い渡した。

 判決によると、男性は2011年4月から飯塚郵便局(福岡県飯塚市)で勤務していたが、6月からうつ病で休職し、12月に不整脈で亡くなった。1審判決は、局長らの言動10件のうち、「いつ辞めてもらってもいい」など2件をパワハラと認定した。

 控訴審判決は、「土下座せい」などと他の職員をどなったことも「職場環境を悪化させ、その場にいた全ての職員に対する違法行為にあたる」として、男性のうつ症状悪化との因果関係を認めた。死亡との因果関係は1審同様、否定した。」
というもの。
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20161026-OYS1T50013.html

 12月3日の熊本での講演会「絶望の裁判所から希望の裁判所へ」では,この話も加えることにしたい。

 ご夫妻別居の状態が長く続いて大変でしょうが,白石ご夫妻には,これからもお元気で仲良く頑張っていただきたいと心から願っております。
(昔,ご夫妻で仲良く頑張っておられるとばかり考えて毎年お二人宛の年賀状をお送りしていたお二人(ご主人とは私が訟務検事当時東京法務局でご一緒,奥様とは私が裁判官になってから千葉でご一緒)が,いつの間にか離婚されていたということを,弁護士になってから知って,驚いたことがありました。)

(追記)
午後5時に郵便受けへ。
入っていたのは,夕刊だけ。
家に戻って,夕刊(朝日)に目を通している中で,10ページの下の方に連載されている「新聞と9条」を読んだら,私が控訴審の最終段階で,被告国の指定代理人を務めた新島ミサイル試射場入会権確認等請求訴訟のことが書かれていた。

昭和48年4月に,司法修習を終了後,「東京地方検察庁検事兼法務大臣官報訟務部付」という辞令をいただいて,いわゆる「訟務検事」としての仕事をするようになって,1年間は,法務本省の訟務部の三課(後の行政訟務第1課)に村重課長のご配慮と後で伺ったが,同期のもう1人の新米訟務検事と向かい合わせの席を準備していただいて,それぞれ20数件の各種訴訟事件を1年先輩の方々から引き継いで,事務官の補佐なしで,恐る恐る担当するようになり,そうした実質研修期間が無事済んだ後の昭和49年4月に,私は名古屋法務局,もう1人の方は仙台法務局の各訟務部に転勤となり,一応一人前の訟務検事として,各担当事件ごとに事務官と一緒に事件処理をするようになったが,それから2年3か月後の昭和51年7月に,突然,部から局に昇格した訟務局に転勤になって,最初の2年8か月は民事訟務課で,その後4年間は租税訟務課で,局付として,各課の実施事件と監督事件の処理や各種研修の講師なども務めるようになった。
 民事訟務課で担当するようになった事件の最大級のものが,新島ミサイル試射場の入会権の存否が争われていた事件で,そのほかに関連の事件として,研究所と試射場の間を結ぶ道路の一部について,原告らが所有権の確認などを求めていた「新島の道路の事件」というのがあり,更にもう1件,新島の海岸に打ち上げられた旧軍の砲弾を焚き火の中に入れて遊んでいた子供達が去った後,爆発して,何も知らずに火にあたりに来た中学生が死亡したということで,その中学生の両親から,国と東京都を被告として損害賠償の支払いを求めていた「新島砲弾事件」というのもあって,この事件は,1年目の局付が私と一緒に担当ということになった。
 入会権訴訟については,着任して間もなく,大きなロッカー一杯の記録をまだ読んでいない時,高裁の裁判長から,「ちょっと来て欲しい」という連絡が担当書記官を通して,こちらの担当事務官にあったとのことで,事務官と一緒に裁判長のもとにお伺いしたところ,「間もなく結審の見込みなので,記録の精査をしているところだが,国の主張で,証拠が不足しているものがかなりあるようだ。よく調べてみるように。」と言われて,10数項目の指摘事項が記載されたメモをいただいた。
 さあ大変。一生懸命,記録を読んでみたが,よく分からないことばかり。
 所管行政庁の防衛施設庁の担当者お二人に来ていただいて,裁判長から受け取ったメモを見ていただいたが,その担当者も「よく分かりません」というばかり。
 しかし,打合せの最後に,「検事さん,もしよろしかったら,新島に行っていただけませんか。村の倉庫の中に,江戸時代の書類が沢山保管されているということを聞いています。」と言われ,急遽,陸上自衛隊の大きなヘリコプターに乗せていただいて,新島に出張。
 大量の古文書を借りてきた。
 しかし,すべてくずし字。自分ではとても読めない。
 その話を亡父にしたら,「あたしなら読める」と言われ,コピーの横に訳文を記入してもらってから,その内容を検討。
 当方の主張に沿う記載も見付かり,古文書を追加の書証として提出するなどしてなんとか裁判長からのメモに記載された疑問点の解消をしてから,最終準備書面の作成。

 控訴審の判決は,国敗訴の一審判決を取り消す内容の国側勝訴の判決であった。
 それから暫くして,道路の事件で,裁判長だった中村治朗判事(後に最高裁判事にご栄転)から,和解できないかというお話があり,いろいろ検討した結果,こういう方法であればという案を提示したところ,相被告の村から毎回見えていた新島本村の村長さんも,それで結構というお考え。原告らの代理人も,その内容であればと言ってくださるようになったが,所管行政庁の担当者からは,上の方がOKしてくれないので無理というお話。
 訟務局長にお願いして,行政庁の官房長に来ていただき,訟務局長からの説明と説得をしていただくことができて,ようやくOKということに。
 新聞に「東京高裁の中村治朗判事が最高裁判事に」という記事が掲載されて数日後の期日に,和解が成立した(和解の内容は,新島にその時点での試射場の規模と試射の期間,内容を拡張したいという申入れが国からされた時は,村は住民投票を実施して○分の○以上の賛成が得られない限り,国からの申し入れに対する承諾はしないこととするとの趣旨の条項を含む内容で,実質,新島の試射場の範囲と試射の期間・内容の拡張はできなくなる内容)。
 この和解ができたお陰で,新島の皆さんの平穏な暮らしが戻ったよう。
 亡夫が元気だった頃,パッケージツアーで新島に出かけたことがあったが,バスガイドさんの説明は,ミサイル試射場があり,昔,国との間で訴訟があったそうという簡単な説明だけだった。

 当時の村長さんは,もう亡くなられたのだろうか。
 行政庁の担当の方もご高齢だったので,亡くなられたのかもしれない。
 
 昔の訟務局では,新米検事でも,思う存分いろいろな仕事ができ,訟務局長はじめ上司の方々も,局付仲間,事務官の皆さんも,皆,良い方ばかりで,そういう時期に訟務局で楽しく仕事ができたことを本当に有難く思っております。 

(追記)
6時半頃,もう一度,郵便受けへ。
郵便が沢山届いていた(相変らず,晴海郵便局の配達は5時過ぎ)。
その中に,信窓会の古いお仲間からの喪中の葉書が,3通。
ご両親は,既に他界されていて,兄弟姉妹が亡くなったというものが多くなってきた。

(追記)
昨日,12月3日,4日の熊本への往復航空券とホテルの予約をし直したということを書いたが,ホテルの方が,果たしてそこで良いかという心配があった(評判は良いようだが,相部屋で,朝食なし)ことから,更に探してみたところ,宿泊料金は,前のホテルの3倍以上だが,朝食付きの,大き目のシングルの部屋の普通のホテルの予約に成功したので,昨日のホテルの予約を取り消した。
 講演会の会場である熊本市国際交流会館のすぐ近くということも,地図を調べて分かり,ほっとした。
 12月3日の朝の飛行機は,午前7時10分羽田発なので,5時半頃,家を出る必要があるが,熊本空港到着が9時10分で,講演会の開始時刻3時までに,かなり時間があるので,熊本市内のまだ行ったことのない場所の見物をしてから,2時半頃,会場に行くことにしたい。
 講演会が済んだ後は,5時から忘年会とのこと。
 ホテルには,到着時刻を午後9時から10時頃の間と伝えたが,二次会がなければ,7時半頃には,チェックインできそう。
 翌4日の熊本空港からの飛行機は,11時5分発で,羽田空港到着時刻は12時40分。

 講演のレジュメは,関東ブロックの研修会が済んだら早目に作成して,できれば,今月25日頃までに,支部長さん宛にメール添付の方法で送らせていただく予定。